つれづれに

春夏秋冬

2004年3月29日

今日は悲しい出来事をつづらせていただきます。先日私のお世話になっていた先輩が相次いで亡くなられました。40代という若さで突然に去られた事に、驚きを持って事実に接し、その悲しみの深さを時間の経過とともに新たにしております。
ご近親の皆様方の切なる思いはいかばかりかと案じるばかりです。

実はついこの間、夢を見ました。普段、夢など見ないのですが内容を鮮明に覚えています。

その内容はというと・・・・

 

僕は目の前のペンギンと話している。

そのペンギンは男の子で、大事な話があるからと僕を呼んだんです。

(夢の中なので細かい所はご容赦を)

彼とは大きさが同じくらいで、しっかり目を合わせながら話しています。

 

彼がね。僕には大切な人がいる。彼女の事がとっても大切で大好きだと。

けど彼女が今、大変な病気で、どうしても僕は救ってあげたいんだと・・・

 

そう彼が話します。

 

僕は、けど君に何か力になれる事があるのかと・・

切なくて、うつむいていました。

 

そうしたら彼が言うんです。

実はペンギンの世界には呪文がある。

その呪文を唱えると、どんな願いでもかなうのだと。

それを唱えて彼女を救いたい。と彼が言います。

 

そして彼は続けました。

「ただし。その呪文を使うと自分は別の動物になってしまう。」

 

かれは僕に別れを告げる為に、話していたのでした。

 

今思い返しても、彼の毅然とした決断した顔が浮かびます。

僕は言葉も無く、見つめていました。

 

その朝僕が感じたのは、

僕に守りたい、こころから守りたい人がいるのかと・・・

その人との別れを前提にしても、大切に思い続けられる心があるのかと。

 

そう、その時は、思いをめぐらせました。

 

 

そして今は別のことも思います。

今生きている僕は、別れていかれた人から、

なんと多くのものを与えられていたのだろうかと。 

数年前に別れを経験した先輩の存在は、今も僕の指針になっています。
そして改めて思います。

永遠の別れとともに、永遠に与えられ続けるものがあるのだという事を。

2003.3.29  T.M.

2003年11月19日

本当に久しぶりの文章です。どうも失礼しました。春の記事からすっかり晩秋となってしまいました。この季節の巡りの間の時間。これからまた意味づけをしていこうと思います。

つい先日、零戦にふれる機会がありました。
平和教育の欄で戦争遺跡については諸処述べておりますが、零戦そのものに触れるのは初めての経験です。
自分が小学生の頃だったでしょうか。国立科学博物館に展示されていた零戦を見た記憶がかすかにあったのですが、それは写真というか絵としての記憶でしかありません。

実際に翼に、プロベラに、胴体に触れると、切なさがこみ上げてきました。
このペラペラ(言葉が悪くて申し訳ありません)の機体に命をかけていたのかと・・・
手に触れると本当に薄い鉄板で機体を保持しているのです。叩くとそれこそ太鼓のような音が響きます。
零戦は当時の航空技術の粋を凝らして、世界でも有数の性能を持った航空機でした。それは上昇速度であったり、旋回性能であったり、そして航続距離であったり。それらの性能を実現するために、枕頭ピン(先端を落とし込んだリベット)の採用や構造体の軽量化などが図られています。知識としては、あくまで兵器としての航空機である以上、様々な工夫がなされていたのだろうと理解しておりました。

しかし触れたときの切なさは別の物でした。この軽量化が進んだ航空機が艦船に突入して、どんな効果が期待できたのでしょうか・・・
特攻攻撃の事です。空中戦においては軽量化を優先するのも戦術かもしれません。しかしこの軽い航空機を突入させる判断は悲しすぎるほどに無謀だと思えるのです。
全長100メートルを超え、総トン数、数千から数万トンの軍艦に対し、零戦は紙のような存在にも思えてしまうのです。コンクリートの壁にアルミで作った飛行機をぶつけても、効果はいかばかりでしょう。その効果に対して、人命を乗せるのです。

一人の搭乗員。彼の今までの人生、将来受け取ったであろう長い人生。彼を育てた両親。見守った親族。友人。全ての人が注ぎ込んできた大切な大切な命を乗せていたのかと思うと・・・・・

翼に触れながら涙が出そうになりました。

2003年 4月6日

春がやってきました。
街には花が溢れ、東京の桜の見ごろもここ数日といったところでしょうか。

桜の花との接し方は人それぞれかと思いますが、私の場合は桜咲く道をのんびり散歩というスタイルが一番好きです。

一年の内で幾つか年中行事と言えるものがありますね。正月、節分、ひな祭り、入学式(転勤?とかも)、甲子園、海水浴、月見、などなど・・・・
ふっと考えると、その多くは人為的な行事であって、自然に委ねたイベントは桜の花見とか数少ないのではないでしょうか。
おそらく、人が自然をもっと身近に感じていた頃、その主体は自然の風情の移り変わりだった事でしょう。
自然の表情を感じ、それに人の生活をのせていく・・・・そんな姿だったように思います。
それでこそ、それを楽しむ事を風流・・・なんていっていたのかも知れませんね。

桜の花見という行為の中で、ふっと思い浮かべる事があります。
「戦艦大和の最後」という名著があるのですが、大和は昭和20年春に本土を離れ、決して戻る事の無い航海に出向いて行きました。
ちなみに出撃の指令をだしたのは、このHPの戦争遺跡にも紹介している、現慶應義塾大学日吉校舎にあった艦隊司令部です。
 ちょっとそれました。
春の出航に際し乗組員は自分の置かれていえる状況を十二分に分かってもあり、人生の覚悟を決めていたようです。
呉港を出航して、鹿児島沖に仮泊していたおり、見張りをしていた乗員が声を上げます。
「桜だ、桜が見えるぞ・・・」
我も、我もと、その双眼鏡をのぞく乗員達。
「その花の美しきかな・・・・」
と結ばれています。様々な思いをのせて、自分の人生の覚悟を決めていた乗員達の胸中はいかばかりのものだったのでしょうか。その思いをのせる桜の花だったのでしょうか。


毎年咲く花でも時代を映します。今年の同じ花でも、思いを寄せる人の心は様々です。
今年の私はとても穏やかに桜の咲く道を散歩できました。
とても幸せでした。

この穏やかな気持ちが、一時、一個人だけではなく、広く社会で共有できればと願います。

2003年 1月16日

今日は、エネルギーの話をしようと思います。
現在の日本はエネルギー消費の大国であり、その多くを化石燃料に頼っているのが実情です。今から20年程前、石油は約30年もすれば枯渇すると言われていました。その後新たな油田の発見等により、現在も特に意識することなく、消費し続ける事が出来ています。一方でこの10年ほどは資源の枯渇と言う視点ではなく、地球温暖化の原因として、化石燃料の使用が見直されるようになってきました。

しかし、ここまで膨張した生活環境の中で、急激なエネルギーの抑制は実質的には不可能に近いでしょう。さてそこで検討されるのが化石燃料以外でのエネルギーの確保となります。
ご存知の通り、近年は原子力発電、風力発電、太陽光発電等の試みがなされるようになりました。原子力発電に関しましては従前より国家プロジェクトとして開発がすすめられ、現在の姿があるわですが、幾多の問題も内在していると言えるでしょう。
そういった上で、クリーンエネルギーとして風力発電と太陽光発電が現在の新潮流なのかもしれません。皆さんもよく耳にするこの二つ以外に、まだ知名度は低いのですが、バイオマス発電という発電方法に私としては非常に可能性を感じています。その事について少々述べられればと思います。

皆さんはブラジルの自動車が何を燃料に走っているかご存知でしょうか?実はほぼ97%の自動車がメタノールと言うアルコール燃料で走っています。基本的にはガソリン車と同じ構造でかまいませんので、日本国内に走るガソリン車をそのままメタノールで走らせる事も可能なのです。

では、なぜメタノール車を話題に出したかと申しますと、ブラジル国内で生産される車用のエネルギー、メタノールはサトウキビの絞り粕から作られているのです。
ブラジルに於いて砂糖は主要産業の一つですが、その膨大な絞り粕を発酵させる事によりメタノールを生成し、自動車の燃料として利用しています。このサトウキビ。比較的効率が良い植物なのですが、絞り粕としての乾燥重量の約半分の重量のメタノールを作り出すことが出来ます。このように、1kgの植物から300〜500gのメタノールが生成可能という事実をお考え下さい。
とても素晴らしいアイデアが色々と浮かんでこられませんか?

日本にも多くの農業産廃が存在します。稲の籾殻や果樹の剪定残。山の間伐材。或いは建物の解体時に生じる不要建材。そういったもの全てが原理的にはメタノール化が可能です。今、都市の街路樹を剪定し、整備した枝などは、産廃として焼却或いは埋め立て処理されていますが、こういった物を利用してメタノール化をすすめれば再生可能なエネルギーとして利用できるのです。

この技術を押しすすめ、東南アジアなどではメタノール化を前提に成長の早い植物を育成し、それによってエネルギー確保を目指す試みも行われるようになってきました。
思い浮かべていただければと存じます。
大地を緑におおう植物こそが、現在の産業を維持するエネルギーの供給源となる。今までの人類が相反するものとしてイメージしてきた、自然と産業との需給関係が一致する接点となるのではないでしょうか?

私には夢があります。この技術を知った時に描けた夢なのですが、南の島に広大なサトウキビ畑を作るのです。そこはメタノールの生産の場。つまり現在の産業を支える、油田と変わりない重要な拠点となります。
そしてそこで働くのは、青い空のもと穏やかに働く事を大切にする人たちです。都会での生活に馴染めなかった不登校の子ども達。精神的なストレスを癒したい大人。知的、或いは精神的に障害のある方々。
今の社会は生産性が人々の価値とみなされがちです。多くの場合、上記のような社会的に弱い立場の方々は生産の現場でも弱い立場にたたされがちで、その仕事の意義も見つけ難いものです。
だからこそです。社会的に最も根源的なエネルギーの生産を彼らと行いたいのです。明確な意義を作り、しかしその環境は自然に近い場所にしたい。
農業生産品と違い、厳密な育成管理も少なく多少おおらかな管理であっても、最終的な目的は達せられる。そんな場所を作れたら、、、そんな風に思うのです。

サトウキビ畑。ちょっと象徴的なイメージですが、バイオマスを使ったエネルギー革命はまだまだ始まったばかりです。私個人も勉強を進めつつ、よりよい社会の実現に力を注げればと思っております。

もし、ご興味を持たれましたら、何でも結構です。連絡いただけますでしょうか。こちらからも情報を用意しますし、こんなアイデアなと、、そんなお話が出来れば幸いです。
よろしくお願いいたします。

matsumoto@npo-kyouiku.org

2003年 1月 5日

新しい年が明けました。新年おめでとうございます。

みなさまの2003年が幸多い年になる事を祈っております。
さて、新年にあたって、以前ふとした事から作ったカレンダーについてお話できればと存じます。
今年はどんなカレンダーにしようかと、デザインや機能性で様々にご検討された事でしょう。
そんな中、私が作ったのは、「50年カレンダー」と言うものです。

B5サイズの紙に2年ほどの月日を書き込み、それを50年分作りました。作った当時が、1995年でしたので、ついでにもう数年足して2050年までのカレンダー。
これをプリントアウトしつつ、つなぎ合わせると、模造紙ほどの大きさにまとまります。

ほぼ自分の人生を(平均年齢ですが、、)俯瞰する事が出来るのです。遠めに見るとただの小さな数字の集合ですが、この一つ一つの積み重ねが自分の人生になるのだと・・・・
不思議な気分になります。

この数字のどこかで、生涯のパートナーと出会うかもしれない。この数字の小さな一点で自分の子供が生まれるかもしれない。或いは、この小さな一点は、深い悲しみにくれる日かもしれない。・・・・・・・・・・」

人生を何となく思い描く、、そんなカレンダーが出来上がります。

パソコンで数時間から数日の労力がかかりますが、結構素敵だと思いませんか。
小さな一点、そんな時間をすごしてもよろしいのかなと思います。

T.M.

2002年12月29日

もう少しで2002年も終り新しい年を迎えます。さて、新年ともなると親戚一同が会しての行事も幾つか予定されている方もいらっしゃる事でしょう。そんな時の会話で一つ・・・・・・

親戚の子供とかを前にした時、こんな質問をしていませんか?
「将来、何になりたいの?」

さて、このありがちな質問を考えてみましょう。(私も数え切れないくらい受けてきました。)
結論から申し上げると、この質問は間違っていると思うのです。

なぜか。本当に子供に対してしなければいけない質問は、
「あなたは、どういう人間になりたい?」では、ないでしょうか。
ニュアンスの違いにしか聞こえないかもしれませんか、とっても大きな違いがあります。

「何になりたい?」は、職業をイメージしての言葉でしょう。
一方、「どんな人になりたい?」は、人格をイメージしています。

子供に対して大人は言いますねー
「どう生きるかが大切だ。」「自分を磨きなさい・・・」

人格をベースにしつつ職業が存在する。本来あるべき自然の姿との順序が逆転しているように思えるのです。

怖いのは、「何になりたい?」では、それこそ職種の善し悪しを印象付けかねない事です。大人が期待しているのは、どういった職種に就くか・・・・そのように子供が受け取ったら良い結果にはならないように思います。

一人の大人でもいいと思います。子供に対してきちんと向き合い、「どんな人になりたいと思う?」と問い掛けれあげれば、その子は職業としての将来ではなく、人格形成としての将来をいつか思うときが来るでしょう。

その意義は大きいと思います。                      

T.M.
 

2002年12月25日

先日、宇和島水産高校の「えひめ丸」事件の当事者であるワドル元艦長が謝罪のため来日しました。大きな憤りを感じたこの事件でしたが、私見を述べたく思います。

今回のこの事件の最大の悲劇は沈没した船が練習船であったという事だと思います。
私も経験があるのですが、ハワイ沖の海は本当に素晴らしい海です。抜けるような青空、深い藍色の海。貿易風が心地よく吹き、そこにいるだけで、両手を大空に広げたくなるような海です。夢大きくはばたく風が吹いている所なのです。
練習船での航海は実習生達にとって、未知であり緊張であり試練であった事でしょう。そんな中、ハワイの海は海に生活するものの最高の舞台を用意してくれていたはずです。
海の底からあの巨大な原子力潜水艦がえひめ丸の船底を突き上げ、もろくも海底に引きずり込んでいったのが、昼食を終えたひと時との事。
船での生活は時間に非常に管理されています。当直は一日2回。12時間を0時から4時。4時から8時。8時から0時と3回に区切り3直制で午前と午後当直に入っています。昼食はそんな業務・実習の中の本当に楽しい穏やかな時間であった事でしょう。
食堂に残り雑談するもの、自室に戻り好きな小説を読みかける者、潮風に当りながら果てしなく続く海の風景に思いを委ねる者。穏やかな日和の中、一番こころ安らいでいた時間だった事と想像します。

実習生はプロではありません。将来を海に生きていくための訓練生です。海に生きる全てのプロが見守り、育んでいく青年達です。視点を変えれば、プロならあらゆる事故に遭遇する可能性と生命の危機を身近に感じる事はある意味、プロゆえに仕方の無い事かもしれません。しかし彼らは実習生だったのです。

重ねます。そんな実習生達の平安を破ったのが、大人のエゴの象徴とも言うべき軍隊の、そして最高の装備を有した原子力潜水艦だったのです。

この事実を考えた時、非常に大きな憤りを感じました。大人として実習生達に申し訳ないと感じました。夢半ばにした青年達の事を私は絶対に忘れません。

 

ワドル元艦長の事です。
人は幾重もの心の服をまとって生きているようです。どんな服なのでしょうか。
事故当時のワドル艦長は「軍人」の服をまとい生きていたのでしょう。それが当初の行動であったように思います。しかし彼は今「軍人」の服を脱ぎました。今回の来日に際し彼は、「元船乗り」としての生き方を見たような気がします。
軍人として理解しようとしていた、今回の事故。それを船乗りとして見つめた時、彼の胸に去来したものはいったいどんな気持ちだったのでしょうか。
彼の涙は元船乗りとしての涙のように感じました。

人は幾つかの服をまとって生きています。それは職業かも知れません。地位かも知れません。しかし一番大切なのは、服をまとう前の純粋な心の判断だと思うのです。

おそらくそこに立ち返ったとき、人々の心のベースは近しいものに違いないと思うのです。

2002年11月28日

先日、仕事の関係上「地下鉄」を陸上輸送するのを取材・撮影してきました。真っ赤な地下鉄が夜の街を遠慮がちに走る姿は何とも可愛く感じたものです。事前に想像していたのは大きな車体を車道一杯に「そこのけ、そこのけ、、」といったものでした。しかし実際に見れたのは街に溶け込んだ、思いのほか静かな雰囲気でした。

さて、今回の出来事でいくつか感じた事があります。

一つはプロの仕事というもの。全長25mにも及ぶ車両を安全に移動させるドライバーをはじめ関係各人のパートパートに分かれた連携プレーです。きっちりとした段取りと、行動は見ていて非常に心強く感じました。

そして木の活用。今回は車輪と車体(お客さんが乗り込む部分)を別々に輸送したのですが、この再連結に活躍するのが木なのです。車体の重量20t。この重みを支える堅牢さ。連結にあたっては両者の位置関係に精度が求められえる訳ですが、その作業にあたっての高さや置き配置の自由度。(まさしく積み木の要領で幾つも組み合わせながら高さ調整します。)なるほどなと思わせる活躍でした。

 

そしてもう一つ。

地下鉄が夜空を見たという事。

長い活躍の末、そっと博物館に展示されるひと時の間、陸上を走ったと言う事です。

色付いた街路樹の並木の中を走る姿を追いながら、ふっと桜の花も見せてあげたかった。そんな風に思いました。地下鉄は季節を知っていたのかな。乗り込む乗客に季節の移ろいを感じる事はあったかもしれないけど、季節の美しさは知らなかったかもしれない・・・

東京の地下を走り続けて・・・コンクリートに固められた空間を走り続けて・・・

お役目ご苦労様でした。本当にありがとうございましたと思うとともに、一杯季節を感じさせてあげたかった。そんな風に思いました。

2002年11月16日

近年、医療事故に対しての報道を目にする機会が際立って多くなっているように思われます。その報道は「医療者の置かれている環境」「医師個人の適性」「患者側の対処法」などの視点で語れています。
結果的にはインフォームドコンセントの重要性が語られる事が多いのですが、そもそも根本的原因はどこにあるのでしょうか。

私が感じている範囲ですが、最も重要なのは医療者サイドの教育にあると思うのです。病院というのは患者にとって正しく人生そのものをかけて訪れる所です。日常生活に於いて隣人が人生を賭して自分に接してきた時、その対峙は真剣勝負そのものです。
医療者とはプロとしてその対峙に望むべき力量を養っている人と位置付けられるのではないでしょうか。それでこそ、プロなのです。
そのプロとしての意識のあいまいさに、事故の付け入る隙を与えているのではないでしょうか。

おそらく医師の養成機関は現代日本の最高水準の教育試験をクリアしてきた人物が多くいるはずでしょう。それに比して現状はあまりにも低水準の議論が繰り広げられているように思えてなりません。

教育の原点は自らの生き方を模索する過程と考えています。最高水準の教育を受けての結果が今の医療界では、そのプロセスに大いなる疑問を感じてしまうのです。

医療問題は私達一人一人の人生の問題です。今日は教育的側面から感じられる感想を書かせていただきましたが、いずれしっかりととらえていきたいと考えています。


追記
健康を考える事は人生の大命題ではないでしょうか。
なぜ、人の体のこと・・・食の事・・・環境の事・・・を学ぶ専門教科がないのでしょうか。
今、社会的に問題提起されている「医療問題」「食の安全性の議論」「環境問題」全てに関係してくる教科となるでしょう。
逆に前記のような諸問題に直接的にアプローチする授業を子ども達は学べる機会はないのです。

2002年11月12日

今月に入って初めての更新です。日常の生活に忙殺されつつ作成を進めているため、少々更新頻度に間があく事もあるかと存じますが、ご容赦頂ければありがたく存じます。通常は2〜3日間隔で情報を付加していこうと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

さて今回の戦争遺跡の調査にあたり、第二次大戦中の数多くの書籍に目を通す日々が続いております。一体あの戦争は何だったのでしょうか。
多くの書に当時の経済情勢、国勢、軍事関係、政治、等々様々な視点から論じられております。
そのような書に触れながら、一つ感じたのは、戦争を史実として客観的に解説する書と、一方で生の人間の感覚としてとらえる書との二極化があるように思えるのです。

この大きな問題に関しては教育関係諸氏のたゆみないご努力により多大な調査報告と書籍が出版されてきております。
その上で今回進めている戦争遺跡の調査におきましては、最終的に遺跡を通してリアルな事実とそこに込められた当時の人々の労苦、悲劇を感じ取れるものに作り上げられればと存じます。

まだデータ収集を始めたばかりですが、ご指導、ご鞭撻頂ければ幸いです。

                                      T.M.