東京都

東京都東大和市に保存されている、旧日立航空機立川工場変電所跡です。東大和市に隣接する立川市は、立川飛行場が戦中・戦後に存在し、立川飛行機の工場もありました。いわゆる生産拠点として重要な都市でした。
この建物は昭和13年に建造され、航空機のエンジンを製造していた工場の変電所として使われていました。そして、昭和20年2月17日、同年4月19日、同年4月24日に小型戦闘機による機銃掃射、或いはB29による爆撃により、建物全体に無数の傷跡を残したものです。
この3度の攻撃により110名余の戦死者を出し、多数の負傷者を生じました。
この生々しい痕跡を後世に伝え、その語り部として保存すべく、現在は都立東大和南公園に保存されています。
地域の方々の保存運動の結果、1995年10月1日に東大和市指定史跡として登録されました。
その一方で同工場跡地にありました「給水塔」は保存の願いかなわず2001年3月に取り壊された事は近代遺跡保存の難しさを端的に表しています。
内部見学等は出来ませんが、市民憩いの公園内にあるという事で、見学時間等を気にせず訪れる事が出来ます。

東京都府中市に残る掩体壕です。
現在も伊豆大島などへと定期便を持つ調布飛行場も戦時中は軍管轄の飛行場でいた。写真の掩体壕は、府中市白糸台にありますが、今の感覚で捉えると飛行場からは随分と距離があるように思われます。当時の飛行場の敷地がかなり広範に広がっていかからでしょう。ちなみにこの飛行場跡地に「東京スタジアム」が建設され、コンサート・サッカーと活躍しています。
さて、白糸台掩体壕ですが、国道20号線を東京方面からくると、東京スタジアムを越え、数分程度走ると西武線をこえる陸橋にかかります。この陸橋の左手(南側)の住宅街にあり、国道からも見下ろす事が出来ます
私も戦争遺跡を知る前、この近くを歩いた折、いったいこの構造物はなんなのだろうと不思議に思ったものでした。掩体壕と知った上で見ると、なるほど特別な目的を有した構造物と再認識できます。コンクリートの厚さは40cm程度はありましょうか。実に頑丈そうな作りです。立派ではありますが、飛行機を入れるとなると一機のみでしょうか。
現在は一般の方の物置的な使われ方をしております。
また、ここのみならず、調布飛行場の周辺には別にも掩体壕があるとの事。
機会がありましたら、改めて掲載致します。
現調布飛行場に向かう道の両側に現存しています。
案内板もあり、そこには昭和16年に竣工を迎えた調布飛行場の沿革が説明されているとともに下記の言葉が記されています。
「多くの生命が失われた悲惨な戦争を記憶にとどめる生き証人としてこの門柱を保存し、平和への道しるべとなることを願うものです。」
戦争遺跡を保存する意義そのもでありましょう。戦争の記憶を時間をこえてとどめる事の認識を新たにします。

日本で一番最初に米軍の空襲の標的とされた施設をご存知でしょうか?
最初の空襲は日本国民に対しての精神的ダメージを狙ったものでしたが、ここ東京都三鷹市にあった中島飛行機製作所もそのひとつでした。
東京近郊の主力軍需工場でもあり、その周辺には関連施設が置かれていたためでしょう。
戦争中は9回の空襲を受け、勤労動員学徒を含めて220名の犠牲者が出ている事を忘れてはならないでしょう。
現在、中島飛行機の戦跡をしのばせるものを一般に見る事は出来ません。
跡地は市民広場と「NTT武蔵野研究所」として利用されています。
上記写真は「NTT武蔵野研究所」の建物。手前の広場には数年前まで戦中からの基礎を生かした研究棟が立っていました。
その地下には長大な地下トンネルがありましたが、保存運動のかいなく、現在は埋め戻されてしまっています。
そして一方の市民公園は、通称「原っぱ」
今、都市部では見かけることのなくなってしまった、何となく遊べる空間。
そこでは、毎年、紙飛行機競技会も開かれています。
かつては戦争の目的を完遂するが為に、空を見上げ、英知を尽くしたこの地に現在は、紙飛行機を飛ばす原っぱと、人とのコミュニケーションをつかさどる通信技術の研究所がある事を、ふっと思いました。

東京都北区十条台1丁目
現在、「北区立中央公園文化センター」として利用されています。私が行ったのは月曜日。休館日で中に入ることはできませんでしたが、通常の開館日は図書館等に入れるようです。ここは、京浜東北線の王子駅からですと徒歩15分くらい。グラウンドなどを有するかなり広い敷地を持っています。23区内にある工廠も当時はかなりの面積を有していたことが伺えます。特に北区は1872(明治5)年に赤羽火薬庫が設立されて以来、「近衛工兵隊」「第一師団工兵第一大隊」「陸軍被服本廠」と続々と軍事関係施設が設立されてきました。「工兵」「工廠」とは、軍事関連物資、多くは兵器を作る工場であり、その担当部隊をいいます。この施設の母体である「東京第一陸軍造兵廠十条工場」は、元は東京都文京区小石川にありました。日露戦争中にここで火薬庫の爆発があり、1905年に当地に移ってきたとの経緯があります。
当時、陸軍で使用する小銃関係を製造していたようです。
ちなみに砲兵工廠は「東京」「名古屋」「大阪」におかれ、それぞれ製造する物資の役割分担をしていました。
東京では小銃関係。名古屋では車両。大阪では大砲関係を製造しています。

前出の「赤羽火薬製造所」の発展とし1876(明治9)年、陸軍砲兵本廠板橋属廠として操業を開始しました。ここでは、日本で初めて黒色火薬の西洋式工業生産が行われたところです。本写真はそれを記念て1936年に建てられた「圧磨機圧輪記念碑」です。板橋属廠はその後、1979年に「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となり1940年に「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となりました。最盛期には7000名の工員が働いていたという、一大軍需工場でした。

東京在住の方なら一度は耳にされたこともあるかと存じます。九段会館は地下鉄東西線の九段下駅を地上にでるとすぐにあります。建築に興味のある方から見ても、その重厚な雰囲気は感じるものがあるでしょう。
さて九段会館は、元軍人会館と呼ばれていましたが、その歴史を簡単に振り返ります。
1934(昭和9)年に結婚式場としてオープンしたとの事ですが、そういう意味では現在の平和的な利用は理にかなったものなのかもしれません。屋上のビアガーデンでお世話になった方も多いことでしょう。また武道館のコンサート帰りにちょっと気軽な食事所としても利用できる環境です。
ここで結婚式を挙げたのが、ラストエンペラー「愛新覚羅溥傑」と「嵯峨浩」。
そして1936年の2.26事件の折には、宴会場が戒厳司令部となりました。
内部の大ホールの壁には、今でも陸軍・海軍のマークが残っているとの事です。(ごめんなさい。確認していません。)


千鳥ヶ淵の土手?に現存しています。計7基が残っており、今はベンチの役割を果たしているのでしょうか。コンクリート製の
台座上面には化粧石板が貼られています。都心に残る戦跡としてはアプローチも容易であり、かつ実戦的な遺跡として訪れる
意義は深いと思われます。都市部においては空襲の被害が大きく、その被害面が資料の大半を占めますが、こういった防衛施設
の存在を目にすると、改めて戦争というものを感じます。
近衛師団司令部庁舎跡(現東京国立近代美術館工芸館)


1910年(明治43年)に陸軍技師田村鎮の設計によって建てられた風格あるレンガ造りの建物です。近衛師団とは天皇を
守るための親衛部隊であり、首都の保安を任務としていました。右下の星型造形物がその徽章です。
建物が抱える事件としては、終戦直前の1945年8月14日、翌日の降伏を阻止する為にクーデターを画策した
一部陸軍将校たちにより森近衛師団長がこの司令部内において殺害された事もあります。
広島・長崎に原爆が投下され、統帥権を持つものの意志として終戦を決定したにもかかわらず、徹底抗戦を唱えたクーデター
が発生する。軍としての思考の停止と混乱を如実に語る事件といえましょう。
現在、この建物は国の重要文化財に指定され、工芸美術館として活用されています。
六本木の繁華街。その中心部から程近い所に2001年初頭まで防衛庁庁舎がありました。仕事の関係上
何度か庁舎内に入ったこともあったのですが、その当時は戦跡に対する意識も薄くせっかくの機会を失った
事を今更ながら残念に思います。
上記は2004年5月現在の庁舎跡です。東京都心では最後と言われる大型地域開発案件として、その工事
が始まりました。土地の造成中でしょうか。一部発掘調査のような作業も見受けられます。数年後には六本木ヒルズと
相まって東京有数の繁華街として注目されることでしょう。
さてこの防衛庁跡の地は終戦前は歩兵第一連隊のおかれていた所でした。歩兵第一連隊とは、1873年(明治6年)
徴兵制によって設置された日本最古の連隊でもあります。終戦によって解隊されるまでの連隊長では「乃木希典」「東条英機」
らがおり、1936年(昭和11年)の2・26事件での当該連隊の関与は歴史にその名を刻んでいます。
現在はご覧の通り、再開発計画により主要な建造物は一切を解体撤去され、史跡的なものは残っておりません。
ただ、ほんの一部ですが隣接する檜町公園に旧射撃場の外壁を見ることが出来ます。以下下記写真。
見るからに重厚なコンクリート製の建造物であり、公園の明るい雰囲気からの違和感は禁じ得ません。

旧防衛庁外壁(時代的背景は分かりません)

旧射撃場外壁
檜町公園にある灯篭。文字の記載は無かったのですが、灯篭部に十字印が見受けられます。この印は、「大阪砲兵工廠」の印と類似
しますが、関係はあるのでしょうか? 未調査です。
近衛輜重跡地

2004年の春の一日、自転車を転がしながら世田谷区周辺の戦争遺跡の確認を行ってきました。軍施設が戦後転用される
に伴い、様々な利用法が検討されてきました。近いところでは東京府中市及び調布市の旧関東村の開発もその一つでしょう。
ここ世田谷区池尻(現地名)周辺には、「陸軍乗馬学校」「陸軍騎兵実施学校・騎兵第一連隊」「近衛輜重兵大隊」などが広大な
敷地に展開していました。現在は、学校・病院・更には公務員団地などとして利用されています。
そしてその生活の場に遺跡が点在しているのが、不思議な印象を受けました。何の情報も無ければ自然とそれらの施設を
受け入れ何の違和感も感じなかったでしょう。
上記二枚の写真は屋内射撃場跡です。厚さ30cmというコンクリート製で確かに今時の建築とは目的を異にしている建物には
違いありません。現在は日通の倉庫としての利用や録音スタジオなどが入っている様子が見受けられます。

国道246号線沿いの「氷川神社」裏手にあります。氷川神社境内から裏のアパートへの隙間から見ることが出来ます。
当日は氷川神社の神主さんがいらっしゃって、場所を教えていただきました。おそらくお話を頂かなければ分からないような
場所です。神主さんがおっしゃるには周辺に3柱あったとの事。一つは撤去跡があり、もう一つは探していただきましたが
見つかりませんでした。60年余りの時を経てなお存在する痕跡に驚きを禁じえません。
騎兵第一連隊跡
騎兵第一連隊跡にある「馬神」とかかれた碑です。少し前まで公営住宅があったのでしょうか。団地のような建物を撤去した
跡のコンクリート基礎跡の近くにあり、現在は立ち入り禁止区域にあります。
1930年建立とのことです。
野砲兵第一大隊跡(現韓国会館)

野砲兵第一連隊の兵舎が現存しており、現在も人が住んでいます。韓国会館の名前のいわれについての知識は
ありませんが、周辺の団地群からふっと時間が止まった趣の建物には、過ごした時間の重みを感じます。
駒場練兵場跡

練兵場に降った雨を排水するための簡易排水施設です。246号線沿いの稲荷神社脇に残っており、
現在も排水処理として利用されているようです。
駒場練兵場跡


糧秣倉庫とは軍関連の食料等を保管していた施設を言います。この建物はかつて糧秣廠馬糧倉庫を補強し
現在も運送会社の倉庫として利用されています。近くの公園に八重桜の木が満開の花を咲かせていました。
穏やかな住宅街の中に終戦後、街に溶け込んできた施設があります。